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富山県黒部市に魚の駅「生地」登場!! 

 

「魚の駅 生地」外観

 富山県黒部市のくろべ漁業協同組合が運営する直販施設「魚の駅 生地」が2004年10月16日にOPENしました!
 施設内では、漁協組合員らが獲れたての魚介類を販売し、魚の普及と観光スポットとしての地域の活性化を目指して、訪れる人々に海の幸と漁師町の素朴な風情を提供しています。
 館内には、その日獲れた新鮮な魚介類や水産加工物などを販売する「とれたて館」や、その場で焼いて召し上がる事が出来るレストラン「できたて館」などが立ち並び、土日ともなると大勢の人々で賑わっています。

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投稿者 ほたるいかの水井2006年5月1日 13:32

ブリ起こし

 

 駅に着いた時には、すでに暗くなってしまっていた。真っ直ぐ港に続く道が伸びていた。歩きたくなったことに特別な理由などない。私は、ゆっくり、ゆっくり、歩いていた。その時だった。魂まで揺るがすような爆音が私を直撃したのは・・・。天地が割れるような、そんな巨大な音だった。私は、ほとんど放心したようになり、宿への道を曲がるのも忘れ、防波堤まで来てしまっていた。

     あれがブリ起こしか---

 ブリ起こし---私がこの言葉を知ったのは何年前だったろう。

 普通、冬の日本海側では北西の風が吹く。ところが富山湾沿岸では、陸地からの南風である場合が多い。この特別な気象状態が、とてつもない雷鳴を伴う暴風雨、あるいは吹雪やアラレを生む。そして、この土地では古くから、こうした冬の雷を「ブリ起こし」と呼んでいた。

 昔の越中人は雷鳴のあまりの凄さにブリが驚いて富山湾に押し寄せてくる、思っていたらしく、それが雷の呼び名になって残ったのだろう。

 冬、ブリ起こしが来るほどの悪天候になると、当然、日本海(外洋)は荒れ狂う。それで上層魚が湾内に逃げ込んでくる。ぶりは、エサトなとなるその上層魚を追って湾内に入って来るのだ。

 ブリ王国の富山では、娘が嫁いだ年暮れに実家から嫁ぎ先にブリを贈るという風習や、下村加茂神社で行われる全国唯一の「魚読み」の正月神事などが残されている。また、海のない長野県でもブリにまつわる多くの風俗・風習が一般家庭で根強く残っている。「年取り魚」という奇習はオイベスサマ(えびす様)にブリの尾を一年間も供えたままにしておくというもので、これほどの奇習は他に例がない。

 何故、他の土地以上に長野県に、古い風習が今なお生き続けているのか。

 かつて、越中で獲れたブリは塩ブリにされ、四匹入りの竹籠を一行李、十六匹で一荷とされ、雪深い飛騨街道をボッカや稼牛によって高山へ運ばれた。高山の問屋を経たブリは「飛騨ブリ」と名を変え、さらに野麦峠を越えて信州に渡る。越中ブリがいつ頃から信州にまで行くようになったのかは不明だが、信州のブリ(年取り魚)習俗起源が十六世紀とも十七世紀とも言われていることを考えると、かなり古い時代からのことだったのだろう。北アルプスを人力で越えたブリは、信州では当然超高級魚となり、大正時代で一匹が米四十キロ分以上もしたという。おいそれと買えるものでもなく、それだからこそ奇習として残り続けた面もあるだろうけど・・・。

 そして、歴史の中で雪深い年暮れの野麦峠を越えた越中がもう一つある。越中ブリが飛騨から信州に向かったのとは逆に、信州から飛騨に向かって峠を越えたのが、越中の娘達。明治時代、富山から多くの娘達が信州へ糸引きに行き、正月の里帰りにこの峠を越えたのだった。きっと、娘達は故郷のブリとすれ違っていたに違いない。

 夜。吹雪。荒れ狂う海の音。私には何も見えない。今ごろは野麦も吹雪いているだろう。

そしてもう一度、私はブリ起こしを待った。

 

投稿者 ほたるいかの水井2006年5月1日 13:20

白エビ漁師

 岩瀬の商店街を歩いて行くと、やがて運河に沿った通りに出る。運河には歩行者専用の「大漁橋」が架かっている。漁船が下を行き交うため、太鼓橋になっている。橋を渡ると岩瀬諏訪町になる。私は一軒の家の前で立ち止まった。白エビ漁に従事している漁師さんを訪ねて来たのだった。

 漁師というとどうしても、顔が赤銅色に日に焼けた年配の人を想像してしまうのだが、出てきてくれたのは、色白の細面の青年だった。それでも腕は太い。三十そこそこといったところか。今起きたばかりという眠そうな顔をしている。漁に出るのは夜明け方で、寄港するのは正午頃だという。どうやら、一仕事終えた後の、午睡を邪魔してしまったようだった。

 早速、白エビ漁の話に入った。何よりも先に気付いたのは、彼が「シロエビ」と呼ぶ事だった。百科事典には「シラエビ」と出ているのだが、彼に限らず、この辺りでは「シロエビ」と呼ぶ人の方が多い。そして、県西部ではその体形が偏平なところから「ヒラタエビ」と呼んだりするそうだ。

 漁場は、神通川河口沖約1500m。そこにアイガメと呼ばれる水深100m位の谷がある。アイガメとは、谷や川筋が海中にまで伸びた深い溝のことで、富山湾では庄川沖の新湊漁場、常願寺川沖の水橋漁場にもそれぞれ存在し、白エビ漁を行っている。

 漁獲高は岩瀬漁場が最も多く、また、白エビ漁を専門にする漁師がいるのは岩瀬だけだということだった。ちなみに、白エビそのものは国内なら糸魚川や静岡、海外なら北欧や地中海でも獲れるには獲れるが、漁獲と呼べるほどの量ではない。つまり、白エビ漁は、世界中でここにしか存在しないということなのだ。遠くフランスのシェフでさえ、「イワセ」の地名を知っているそうだ。

 では、白エビは高級魚なのか?という質問をぶつけてみた。

 彼が子供だった頃は、かなりの高級魚だったらしい。年に二度だけ、つまり盆と祭りの日だけ、スリ身やおすましにして食べさせてもらったという。「昔はこれくらい白エビが獲れるだけで、漁師は食って行けたもんだと聞いてます」と、彼は両手を抱えるようにした。とすれば高級魚どころか上に超の一文字をつけてもいいだろう。「今はそれほどじゃありません。おかしなもんですよね。昔以上に皆が白エビ、白エビと言うようになったのに・・・」
 
帰りにも私は大漁橋を渡った。彼の祖父や父親の時代には、この橋は木造だったらしい。彼は三代目の白エビ漁師だった。橋の上から見る夕陽の赤さが、この上なく美しく見えた。

 

投稿者 ほたるいかの水井2006年5月1日 13:18

観光船リポート

 

ホタルイカの観光船があるという。食べるばかりが能でなかろうと、乗ってみることにした。

 滑川漁港に着いたのは五月十日の午前三時頃。連休明けの平日だというのに、神戸・東京・名古屋・長野といった県外ナンバーの車が目立った。

 真夜中の観光船なんて、せいぜい十人程度の客だろうとたかをくくっていたのだが、受付の前に集まったのは百四十人強。何かお祭りでも始まりそうな賑わいだった。

  船が港を出たのは午前三時半。漁場は沖合千メートル辺りなので、十分程で到着する。が、その頃はまだ真っ暗なので何も見えない。暗黒の海は不思議なくらいに静かで何か落ち着かなかった。

 係員に訊いてみると、ひとつの定置網の底辺は約百メートルで、観光船の網のちょうど中央付近に停泊しているとのことだった。左右に分かれた二隻の漁船が向かい合い網を手繰りながら、その百メートルを少しずつ詰め寄ってくるわけだ。

 四時頃になると、ぼんやりと立山連峰のシルエットが見え出した。海面はまだ闇のままだ。そんな夜明けの始まりとともに、

   ヤーサコイッ、ヤーレサッ
   ヤーサコイッ、ヤーレサッ
   ヤーサコイッ、ヤーレサッ

と、左右の闇から漁師さん達の低く勇ましい掛け声が近づいてきた。

 やがて、漁船と漁師さん達のシルエットも浮かび上がり、手繰る網や海面のあちこちに、ホタルイカ特有の青い光が点々と光り始めた。

 向かい合った二隻の漁船が約十メートル程まで近づくと、いよいよホタルイカを漁船に上げる作業が始まった。一掬いで約五十キロも入るという馬鹿でかいタモ網で掬い上げるのだ。漁船には数十人の漁師さんが乗っているのだが、タモ網で掬い上げる役につく人はたった一人でしかない。

 最初のタモ網が入れられた瞬間、暗黒の海面に青い光の群れがほとばしった。いささか非現実的な表現になるが、もしこの世に触れた瞬間だけ輝く宝石があるとすれば、暗闇に突然そんな物質が出現したようにみえてしまう。つまり、固体でもなければ液体でもないような不思議な光り方をする。そして、掬い上げられたタモ網の中には、そんな半液性の小粒の青い光が無数に踊り狂っていた。

 タモ網のホタルイカは、そのままプラスチックの籠に受けられる。その掬い手のテンポがあまりにも速く、見ている者にはせいぜい五キロ程度の重量にしか感じられない。われわれが金魚掬いをやるより、もっと速いのだ。後で数えてみると、船上に百ケース余りの籠が積み上げられていた。この日はまれに見る豊漁だったそうだが、そんなことより素人目には、こんなに積んでよく沈没しないものだと呆れた。

 やがて、漁は完了し、漁場は穏やかな朝の海に戻り、観光船もゆっくり岐路に着いた。振り返ると、遠ざかる漁場の辺りには何羽ものカモメが飛び交い、ときおり急降下しては海中のホタルイカをつばんでいた。そんな朝の光景がのどかであればあるほど、ついさきまで目にしていた暗闇に舞う青い光の群れが、いっそう夢でしかなかったように思えたものだった。

 

投稿者 ほたるいかの水井2006年5月1日 13:13

回想−雌・オブ・ブルース−

 

 産卵の為深海からやって来た雌のホタルイカは、産卵を終えると力尽きてしまい、波打ち際まで打ち寄せられる。これを「身投げ」とよぶわけだが、五月頃になると深夜目掛けて、群れをなして身投げするホタルイカを手掴みにするために、大勢の人が浜に集まる。一時間もあればバケツ一杯は優に獲れるので、バケツとタモを持参した方がいいだろう。出来るならば、七輪と炭と金網と醤油も持参したほうがいい。

 獲れたばかりのホタルイカを炭火で焼き、醤油をチョンとつけて食べる。これが最高の食べ方だ。この食べ方、極めて単純なのにも関わらず、知っている人はごくまれで、ホタルイカの通を自称する人になればなるほど知らない。「ホタルイカを焼いて食べるって?馬鹿を言うんじゃない」と相手をしてくれなかった人に、無理矢理食べさせたところ、同じ口から、「こりゃ最高!?」という台詞が飛び出し、以来その人は病み付きになってしまった。

 この食べ方、そもそもは今から二十五年程前頃に、地元の漁師さんが良くやっていたことで、当時は船の上で獲れたてのホタルイカを七輪で焼いて食べたのだという。

 つまり、通どころかプロの食べ方で、ミソは、醤油以外の調味料は皆無であることと、単に「焼いて」食べるのではなく、自分が食べる分を一匹づつ「焼きながら」食べる事。

 しかし、一般の人は船に七輪を持ち込むことなど不可能なので、深夜の浜辺で身投げしに来るホタルイカを獲って、この方法を試すがいい。いづれにしても、現地でなければまず不可能な食べ方でしかないが、五月の真夜中に備長炭でも抱えて浜に行く気がなければ、グルメにはなれないだろう。

 そして、この食べ方が最高であることのもう一つの理由は、自分で獲って食べるということにある。ホタルイカの雌は、手掴みする瞬間に最後の光を放ち、一年の寿命を静かに閉じてゆくが、その光が最高に美しい。やはり、産卵を終えた後の「雌の詩情」という妖しさの光だからなのだろう。あまり詩情を感じすぎ、食べる事に気が退けてしまった場合には、食べなければいい。そのままだけを味わえばいい。

 そういえば、「MESS OF BLUES(メス・オブ・ブルース)」という古い歌があるが、あの光にとても似合う歌で、因みに直訳すれば、「ほんの一食分のブルース」となる。

 

投稿者 ほたるいかの水井2006年5月1日 13:09

恋歌

 

 ある年の五月、旬のホタルイカを食べたさに滑川へ旅したことがある。

 町を散策しているうちに、

「ホタルイカは鳴くんですよ」

と教えてくれた人がいた。

 このことに興味を持った私は、他の人にも訊いてみたが、発声しているわけではないらしく、それでも土地の人は「ホタルイカが鳴く」と表現する。甲高く澄んだ鳴き声(あるいは音)なのだそうだ。

 私が興味を持ったのは、それが「声」なのか、「音」なのかではなく、ホタルイカが何と言うて鳴くのか、ということだった。それを聞き分けるには実際に聞いてみないことにはどうしようもない。

 色々と想像してみた。海岸まで浮遊して来るほとんどが雌ということから、とすればある種の恋歌なのか、それとも産卵後の休息の歌なのか・・などと。

 生まれて初めてホタルイカの鳴き声を耳に出来たのは、この年の二年後、やはり五月だった。いつも同じ頃に来るのは、何もホタルイカの旬だからというばかりではない。北アルプスの雪解け水がそそぎ、キラキラ光る初夏の富山湾を眺めるのが好きなのだ。

 その日、まだ誰もいない夜明けの浜を歩いていた。波の音しか聞こえない。そんな静けさの中から−キュンと書くべきか、キューンと書くべきか−切なげなソプラノが響き、私にはその鳴き声が こう聞き取れた。

    −わすれじの行末までは難ければ

            今日を限りの命ともがな−

 確かに、波に打ち上げられるホタルイカは女流なのだろう。これ以上情熱的な恋歌を、私はまだ一度も聞いたことがない。

 

投稿者 ほたるいかの水井2006年5月1日 13:04

アカコ

 

アカコ


 七月の早朝の海は、ことさらに蒼く澄み、穏やかな波がゆっくりと揺らいでいる。そんな蒼い穏やかな海に、突如として体長数ミリの小魚の大群が出現し、海面が帯状に数キロにも渡って紅く染まって見事があるのだろうか。 

 この話、もちろん私自身は一度もお目にかかったことが無いので、色々と聞き回ってみたところ、水産試験場でも話としては聞いているのだが、まだはっきりとしてた資料はつかんでいないということだった。地元の人でも「見た」と言う人は極めて少ない。そしてそれらは、白えび漁に従事する岩瀬近辺の漁師さんたちである。

 紅い小魚の大群とは、ほたるいかの稚魚を指すのだが、地元では「アカコ」と呼んでいる。

 五月頃に産み落とされたほたるいかの赤ちゃんたちが、ようやく巣立ちして沖を目指して必死に泳いでいく、というのが、七月の朝の海の珍現象の真相のようだ。

 ただし、この現象、まことに残念なことに、陸からはほとんど見ることが出来ないのだそうだ。現象そのものが起きていても、遠目にはそれと気付かないまま見過ごしてしまうらしい。現に私が聞きまわった範囲でも、蜃気楼を見たことがあると応えた人より、ずっと少数でしかなかった。

 どうやら、民宿にでも泊り込んで、毎朝、白えび漁の船に乗せてもらうしか、めぐりあえる方法がなさそうだ。それとも今年の夏は、仕事も忘れて富山湾岸に借家住まいでもしてみようか。

投稿者 ほたるいかの水井2006年5月1日 12:59

砂上の漁火

   深夜、そっと宿を抜け出したのは12時を回っていたと思う。寝付かれなかったせいもあるが、無性に夜の浜を歩いてみたくなったのだ。
 暗い松林を抜けて浜に出ると、静寂の海の遠くに漁火がいくつか浮かんでいた。当然、浜には誰もいないものとばかり思っていたのだが・・・
 いったい誰が、真夜中の浜のあんな光景を想像できただろう。綺麗な弓状を描いて湾曲する砂浜に沿って、ほぼ等間隔の距離を置いて小さな焚き火が蜿蜒と続いていた。何百メートルも先まで、いや、一キロ以上も続いていたのかもしれない。そして、それぞれの焚き火の周囲には数人の人影が、シルエットになって浮かんでいた。近づいてみると、家族連れといった一団もあれば、若者同士のグループもあり、中には酒を飲んでいる人達もいた。
 私は思ったものだ。これは古くからこの土地に伝わる「火祭り」か何かの宗教的行事に違いないと。初めての者なら誰だってそう思い込んだのではないだろうか。
 何をしているのか、声を掛けてみた。
「待ってるの」
と十歳くらいの少女が応えてくれた。
「えっ!?」
「あのね、身投げを待ってるの」
少女の声は、実にあっけらかんとしたものであり、しかも楽しみでしょうがないといったそれだった。
 さて、この話の種を明かしてしまおう。当時の私は、「身投げ」とは産卵のため沖から浮遊してくるほたるいかが、波打ち際まで打ち上げられる現象であることを、全く知らなかったのだ。そして、私が「火祭り」だとばかり思った真夜中の焚き火群は、砂浜でほたるいかを待つ人々が、暖をとるためのものだった。
 私が五月か六月に必ず富山へ旅するようになったのは、ほたるいかを知る以前に、「浜の漁火」ともいえるこの焚き火群に魅せられたからだった。何故か、この風物詩は観光案内にも紹介されていない。
 

投稿者 ほたるいかの水井2006年5月1日 12:56 | コメント(0) | トラックバック(0)

冬の蜃気楼

 

宿の部屋からは、誰もいない漁港と、かなり沖まで伸びた長い防波堤、そしてその突端に立つ純白の燈台が見えていた。
 
海は荒れ、冬の黒さで大きくうねり、猛り立つ波が破壊的な力で、コンクリートを打ち続けている。見つめていると、黒い海の中であの

燈台の白さだけが輝いて見え、やがてその華奢でか細い肢体が、何かにじっと耐えて立つ少女像のようにも見えてくる。あの燈台に

は、そんな詩情がある・・・。
 
私が冬の北陸を旅しようと思ったのは、人伝えに聞いた「冬の蜃気楼」を見てみたいと思ってのことだった。もちろん、私がこの宿に逗

留していた間、それは出現してくれず、ただぼんやり海を見て過ごしただけに終始した。無理もない。この土地の人ですら、冬の蜃気楼

はおろか夏のそれをも、まだ一度も見たことのない人の方が多いほどなのだ。こんな小旅行で、もの珍しい冬の蜃気楼にめぐり合える

などという幸運が、そうそうあるものではない。
 
外は吹雪いてきたようだ。帰り支度をして私は廊下に出た。
 
と、長い廊下の途中、客なのか宿の人なのか、窓を向いてポツンと立っている女性がいた。何をみているのだろう。外は吹雪と冬の海

が騒いでいるばかりだ。

 「何が見えるんですか?」

私が声を掛けると、彼女は相変わらず窓の外に眼を向けたまま、
 
「迷児のほたるいかです・・・」

と応えてくれた。 

彼女が話してくれたところによれば、ほたるいかは春や初夏に限らず、真冬でも富山湾内に棲んでいるのだそうだ。ただしその数は僅

かで、春先のように海岸近くまで浮遊してくるといったこともないらしい。そして、彼女は冬でもいる少数のほたるいかを、「迷児」だと信

じているのだった。
 
こんな話を聞かされ、私はもう一度、彼女の視線を辿りながら、相変わらず吹雪いている海の方を見た。
 
「見えましたよ」私がつぶやく。

 「・・・・・・?」彼女は私を振り向く。

私は微笑しながら、ゆっくりと応えてあげた。
 
「冬の蜃気楼。ほら、あの純白の・・・」

 

投稿者 ほたるいかの水井2006年5月1日 12:54